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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第1節 雨の予感 [4]




 改札を出てからほとんど休み無しだった足を、初めて止めた。マンションを見上げる。どこかに美鶴が居る。
 駅舎に寄ったが居なかった。鍵もかかっていた。
 今日は直接家へ帰ったのか? ひょっとしたら瑠駆真が強引に連れて帰ったのかもしれない。
 このマンションの一室で、美鶴と瑠駆真が二人っきりでいるのかと思うと、興奮と怒りでどうにかなってしまいそう。ほとんど無意識のまま、マンションの入り口へ飛び込んだ。
 呼び出しには、すぐに反応があった。意外だった。反応が無ければ携帯を鳴らしまくってやろうと用意していた左手が拍子抜け。
「来ると思っていたよ」
 まるでこちらの行動など手にとるようだと言わんばかり。もちろん瑠駆真だ。
「入れろ」
 唸るような聡の声。
「美鶴は居るんだろう?」
「開けるからそこで待ってて」
 聡の質問には答えず短く告げ、瑠駆真は一方的に切った。
 思わず乗り出しそうになり、だが管理人の視線にしぶしぶ身を引く。
 開ける? 誰が? 瑠駆真が? 美鶴は居るのか? 居るはずだ。だってここは美鶴が住んでいるマンションなんだから。
 そうだ。ここは美鶴の住処だ。なのに、まるで自分のマンションであるかのように瑠駆真は振る舞う。
 開けるから待ってて。
 まるで、自分の部屋に招き入れるかのような言い草。
 自分の部屋? そういえば、この部屋は瑠駆真が用意したものだったな。正確には瑠駆真の父親。
 いや、だが、だからって、こんな振る舞いは許せない。よりにもよって、美鶴と一緒に生活するだなんて。
 なんとしても辞めさせる。でなければ俺も。
 瑠駆真とどう交渉しようかとグルグル頭を捻くりまわしているうちに、本人が降りてきた。
 慣れた手つきで入口を開ける。
「美鶴は?」
 瑠駆真は黙ってエレベーターへと向かう。
「美鶴はどうした? 部屋に居るんだろう? お前ら、どうして今日は駅舎に来なかった? お前が美鶴を連れて帰ったのか? それとも」
「うるさいね」
 ボタンを押し、肩越しに振り返る。
「そんなところで喚いていると、エレベーターに乗り損ねるよ」
 ポンっと控えめな音と共に扉が開く。瑠駆真が乗り込む。
「どうするの? 来るの? 来ないの?」
 聡はエレベーターに飛び込んだ。
 部屋までの時間はひたすら沈黙。瑠駆真は何にも答えるつもりはないようだし、聡としても、まずは美鶴の姿を確認したかった。
 美鶴に会って、問い(ただ)したかった。
 なぜ、瑠駆真などと一緒に住む事にしたのだ。なぜ彼が同居する事を了承したのだ?
 美鶴が許可したのか? それとも瑠駆真が強引に?
 学校での時間がもどかしかった。午後の授業なんててんで集中できなかった。自分を取り巻く女どもが(うざ)かった。同じクラスだったらよかったのにと思った。
 (はや)る気持ちを荒い呼吸でなんとか押さえながら、部屋の前までたどり着いた。
「どうぞ」
 瑠駆真は、ここでもまるで自分の部屋へ招き入れるかのように扉を開けた。
 無償に一発殴ってやりたい気分が湧いた。グッと堪え、息を吸って中へと入った。
 一歩を入れると、あとは止めようがなかった。蹴り飛ばすように靴を脱ぎ、部屋の奥へと駆け込んだ。
「美鶴?」
 返事は無い。
「美鶴っ」
 無人の部屋に聡の声だけが響く。
「美鶴? どこだ?」
 彼女の部屋だと思われる扉に手を掛ける。
「女性の部屋に無断で入るのはいかがなものかと思うよ」
「うるせっ」
 怒鳴りながら、だが扉から手を離す。
「美鶴はどこだ? 寝てんのか?」
「いや」
「じゃあ、どこだ? 居るんだろう?」
 決めつけるような相手の態度に、瑠駆真は少しオドケたように肩を竦める。
「居るように見える?」
「はぁ?」
 改めて部屋を見渡した。ソファーの上には、無造作に置かれた毛布。きっと詩織(しおり)がテレビを見ながら転寝(うたたね)をするのに使ったのだろう。ダイニングのテーブルにはマグカップ。縁にはベットリと紅い口紅。これも詩織の痕跡だ。
 美鶴が居るように見える?
 聡は恐る恐ると浴室の方角を覗き込んだ。
 人気(ひとけ)は無い。ホッとする。と、同時に不安も湧く。
 美鶴は?
 振り返り、問い詰めようとしてふと視線が足元にいった。
 瑠駆真の背後には玄関。脱ぎ捨てられた聡の靴。そのそばに、あるはずのものが無いような気がする。
 聡の視線に気づき、瑠駆真が薄っらと笑った。それは、とても楽しそうには見えず、どこか怠惰で、少し切ない。
「残念ながら、僕の気持ちは僕が思う以上に彼女からは迷惑がられているようだ」
 視線を外し、右手を額に当てた。前髪がサラリと揺れた。陽当たりの良い部屋をすばやく影が横切った。窓の外で、雀が若葉の間を渡り飛ぶ。その姿はまるで瑠駆真の行動を嗤っているかのようで、思わず瞳を閉じた。
「美鶴はどうした?」
 額に当てた掌の下で、長い睫毛が婀娜っぽく揺れた。少し、溜息が洩れた。
「逃げられたよ」







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